오이디푸스 왕의 비극론

文責:ゲオルギ
  目次 ①前書き ②オイディプス王あらすじ ③悲劇の要素 ④悲劇の魅力
      ⑤劇的とは ⑥陶酔感 ⑦スフィンクスの謎 ⑧人間的

①【前書き】
悲劇の面白さとは何か?悲劇の定義は何か?悲劇における劇的とは?などなど、悲劇についての素朴な疑問を考えてみようというのが、この文章の趣旨です。最後のほうは『オイディプス王』論になってます。数ある悲劇作品の中でオイディプス王を選んだのは、古典中の古典だからと著者の好みです。シェークスピアなどを混ぜようとするときりがないので、他の悲劇との比較は読者の皆さんにお任せします。

②【『オイディプス王』の元になったオイディプス伝説のあらすじ】

 ギリシャの都市国家テバイの王ライオスと妃イオカステの間に男の子が生まれた。だが、この子はアポロ神の神託によって、「父を殺し母と姦淫する」という預言がされた。預言を恐れた王は赤子の両かかとをピンで貫いた上で、家来の牧人に山に捨てて殺せと命じた。赤子を不憫に思った牧人は、その子を別の牧人に預ける。赤子は子供のいなかったコリントス王の手に渡り、自らの出生を知らぬままコリントス王子として育てられる。赤子はかかとの傷から「腫れ足」を意味するオイディプスと名付けられた。ひょんなことから、オイディプスもアポロの神託を受けると、「父を殺し母と姦淫する」といわれる。オイディプスは預言の実現を避けるため、自らコリントスを去り旅に出る。

 旅の途中、三叉路でオイディプスは馬車に乗った老人一行と出くわす。道を譲る譲らないで争いになり、彼は一行を殺してしまう。彼は知らなかったが、この老人こそ実の父ライオスだった。テバイにくると、都は怪物スフィンクスの出現で大騒ぎだった。スフィンクスの謎に答えられないと、食われてしまう。ほとほと困っていた王妃イオカステと、その弟で摂政のクレオンは、スフィンクスを退治した者に今は亡きライオスに代わる王の地位を約束する。勇敢なオイディプスがそれに挑み、謎に「人間」と答えると、スフィンクスは谷に身を投げて自殺する。約束どおりオイディプスはテバイの王となり、実の母と知らずイオカステを妻にする。そして、その間に二男二女を設けた。

 だが、それからテバイに凶作と疫病が広がる。アポロに解決策を尋ねると、「この国には一つの穢れが救っている。さればこれを国土より追い払え」と神託が下る。そこで、オイディプスはライオス殺しの犯人探しをはじめる。やがて、オイディプスは自らが犯人であり、すでに「父を殺し母と姦淫して」いることを知る。穢れはオイディプス自身だった。それを知ったイオカステは自殺し、オイディプスは自分の目を潰して放浪の旅に出る。

 舞台『オイディプス王』は、オイディプスがテバイ王になっていて、国に凶作と疫病が流行っているところから始まる。だんだん伝説の全体像が明らかになる形で、物語は進行する。


③【悲劇の要素】《1、肉親 2、意に反した結果 3、善人過ぎず、悪人過ぎず 4、まとめ》

1、肉親

見ず知らずの他人や、憎みあった敵同士の間で殺しや苦難が起きても、あまり悲劇にならない。親しい間柄、特に無条件で頼れるはずの家族内で不幸が起きると、悲劇的になる。例えば、三叉路でオイディプスが殺したのが父親でなく、ただの老人に過ぎなかったら悲劇性はグッと減る。確かに死そのものはイヤなものだ。だが、それは嫌悪の対象であって悲劇的ではない。アリストテレスは『詩学』で悲劇について論じているが、そこから言葉を借りれば、死だけでは「忌むべきもの」だ。自分に親しい人間であったり、家族であったりして、死に悲しみや哀れみが加わることで悲劇になるのだろう。ニュースで他人の交通事故死を聞いても、悲しくなんてなれない。

 シェークスピアの四大悲劇『リア王』『マクベス』『オセロ』『ハムレット』の内三つが肉親の悲劇である。リア王は娘たちに虐げられ、オセロは愛する妻を殺し、ハムレットは叔父と母に復讐する。

2、意に反した結果

「悪意から人を陥れる。善意から人を助ける。」それでは悲劇にならない。「助けるつもりだったのに、かえって苦しめてしまう。」こういった意図と逆の結果が出てしまうからこそ、悲劇的になる。『オイディプス王』にはこの形がとても多い。いくつか例をあげよう。

 一つ目。ライオスは、自分の子に殺されまいとして我が子オイディプスを捨てる。そのため、オイディプスは実の父の顔も名前も知らずに育つ。三叉路で会った老人が実の父だと知らないから、彼はためらいなくライオスを殺す。結果的にライオス自身が、オイディプスが「父親殺し」をしやすい環境を作ることになるのだ。

 二つ目。オイディプスは自分の「父親殺しと母親との姦淫」という預言の実現を避けるため、コリントス王夫妻の元を去って旅に出る。旅立った先はテバイ。だが、コリントス王夫妻は実は義理の親であり、生みの親はテバイにいた。親から離れたつもりが、逆に本当の親に近づく結果になってしまうのだ。

 他にもたくさんあるが、長くなるので二つだけにしておく。『オイディプス王』の物語では、基本的に悪人は出てこない。みんな善意から行動し、アポロの神託「父親殺しと母親との姦淫」の実現を避けようとする。だが、その一つ一つの行動が複雑に絡み合って、必然的に神託は成し遂げられる。くどいようだがモデル化して言うと、非Aを目指した行為が、意に反してそのままAを生む行為になる。ここに悲劇がある。

3、善人過ぎず、悪人過ぎ

 悪人が不幸になっても、自業自得で悲劇にならない。犯罪者が逮捕される、人殺しが復讐されて死ぬ。そのことに対して、誰も悲しみや哀れみや恐怖を感じたりしない。

 かといってその正反対もだめだ。あまりに善良な人が不幸になると、悲劇を通り越して痛々しい。例えば、純粋無垢な子供が冤罪で逮捕されたり、労働で酷使されたりするとしよう。子供じゃなくても、修道院の中だけで育った人とか、山奥で暮らしていて悪の概念すら持ってない人でもいい。そういう人が不幸になると、なんと言うか、ただ心の苦痛でしかない。

 一歩間違えると罪を犯してしまう弱さと邪悪さを持ってはいるが、根は割りといい奴。そういう等身大の人物がいい。悪一辺倒でも善一辺倒でもなく、善と悪の間で葛藤する心が悲しみを増す。自分と共通点を持っているから、哀れんだり同情したりできる。

 ではオイディプスはどういう人物か。結論を先に言うと、君主としての彼は非常に名君であり人格者だが、ややカッとなり易く物事を決めつけがちな欠点を持っている。例えば、物語冒頭で民衆が凶作と疫病の苦しみを訴えるシーン。以下の「」は、オイディプスのセリフ。「我が民らよ。人みなにその名もかくれなきオイディプスが、自らここにやってまいった。」「救われるためのただひとつの対策、それを私はすべて実行にうつしたのだ。」彼は民衆の訴えを玉座に座って聞いたりせず、その様子を先に悟って自ら出向いている。しかも民衆の訴えを待つまでもなく、対策はすでに打っていた。なかなかの名君ぶりと言えよう。

 では欠点の方はどうか。三叉路でライオスともめた時、彼は痛めつけるだけではなく、従者を含めて四人を殺してしまう。別のシーンで、いよいよ真相が明らかになるという時、いち早く真相に気付いたイオカステはひどく取り乱す。だが、オイディプスは「きっとわしが下賎の生まれであることを恥じているのであろう。」とまるで取り合わない。結局、放って置かれたイオカステは一人自殺してしまう。

 良い面悪い面両方明かになるシーンがある。オイディプスがライオス殺しの犯人は摂政のクレオンに違いないと考える場面だ。このオイディプスの推理は状況証拠ばかりの当て推量であり、むしろ一方的な思い込みに過ぎないのだが、オイディプス自身は信じて疑わない。彼は興奮して、クレオンのことを「暗殺者」「略奪者」と罵る。しかし、コロスの長老たちがクレオンとの争いを止めるように何度も哀願すると、オイディプスはこう言う。「その男(クレオン)を立ち去らせるがよい。その結果たとえ、この身が死ぬかあるいは無理にこの国から追われることになろうとも(本当にクレオンが犯人なら、次はオイディウスが狙われるから)、止むをえない。なぜならお前のその哀れな言葉に対しては、心を動かされずにいられぬからだ。」オイディプス自身クレオンが犯人だという考えを変えてはいない。彼は身の安全よりも、国民の悲痛な願いを優先させるのだ。

 オイディプスはスフィンクスを退治するほどの知恵者であり、模範的な名君でもある。だが、そんな神話的英雄でも、性格が直情的という欠点もあり、いわば人間的弱さを失っていない。

4、まとめ

・殺人、罪、苦難、そういった悲劇的な出来事は、アカに他人や敵同士の間で起こっても悲劇にならない。親しい間柄で起こってこそ哀れみと悲しみが生まれる。そのために、家族や肉親は最適のシチュエイションだ。

・助けるつもりがかえって苦しめた。救うつもりが、逆に追い込んだ。こういうふうに、「良かれと思ってやったことが悲劇を生んだ」というのが最も悲劇的だ。悪意を持って事件を起こしたり、隕石が落ちてくるようにまったくの偶然で人が死んだとしても、悲劇にはならない。

・悪人が、不幸になっても何の哀れみも悲しみも感じない。あまりに善良な人だと、悲劇的を通り越してイタイタしい。やや善良な人物が不幸に転落する。だからこそ悲劇になる。 


④【人はなぜ悲劇を見るのだろうか?悲劇に何を求める?悲劇の魅力って?】

《1、カタルシス 2、崇高 3、変化する人間 4、価値の転換 5、現実は悲劇》

 

1、 カタルシス(浄化)

悲劇を見る理由として、これが最も一般的だろう。アリストテレスの術語だ。乱暴に要約すると「哀れみ恐れといった感情を強烈に感じることで、逆に感情を発散してすっきりすること」だ。卑近な例を挙げてみよう。例えば失恋した人が、あえて失恋の歌を聞いてオイオイ泣くことで悲しみをふっきる場合。あるいは、イライラしている人が物に当り散らして怒りを爆発させることで落ち着きを取り戻す場合だ。感情の強化・推進による感情の鎮静化という逆説の形をとる。

カタルシスとは、日頃なかなか表に出せずにたまった感情を浄化すること。見方によっては、風呂に入って心の垢(アカ)を落とすようなものだ。一過性が強いといえる。もっと突き詰めれば、カタルシスは普段避けがちな負の感情に正面から向き合うことで、それを相対化する、あるいは止揚することだ。

2、崇高

 悲劇的な状況でも、毅然として運命に立ち向かう。そういう人物を見て、崇高な感覚に酔えるのが悲劇の魅力のひとつだ。オイディプスが父を殺し母と姦淫してしまった事実が明らかになった時、妻であり母のイオカステは自殺した。だが、当のオイディプスは自殺しなかった。確かに自分の目を潰してはいるが、それは現実逃避ではなく、運命を受け入れその運命の中で生きていくための積極的な方法だった。オイディプス「わしがこうしたことが(目をピンで刺し潰した)、最上の処置でなかったなどと、けっして言ってくれるな。…ハデスの国へおもむいたときに、わしはどのようにして父上を、まともに見ることができるというのか。またどのようにして、不仕合せな母を?」

 彼は、真相を知って嘆きはするものの、パニックになったり自暴自棄になったりしない。やるべきことはちゃんとこなす。穢れを取り除くという当初の王の義務を、自らの追放という形で果たし、母との間に設けてしまった子供たちを次の王に託すことで、父親の義務も果たす。

 私は割と安易に「死にたい」愚痴をこぼし、もろもろの現実と妥協する。だが悲劇に出てくる主人公たちは違う。苦悩や葛藤を経ながらも、運命に正面から立ち向かう。この英雄的で崇高な姿勢が、悲劇の魅力なのだ。

3、「悲劇は極限状況によって、変化する人間を表現する」(ヤスパース『汎悲劇主義』)

 悲劇的状況だからこそ明らかになる人間性、人間ドラマがある。悲劇が求められるのはそれを浮き彫りにするためであり、あくまで条件や背景として必要なのだ。

例えば、無人島や戦場で人はどう変わるか。人格者と称えられた人が、獣同然になるかもしれない。友情・家族の絆・恋愛は破綻するのか、それとも一層輝くのか。平凡な日常では、英雄も悪人も出てこない。ギリギリの状況で体裁の仮面が外れた時こそ、本音の躍動するドラマが生まれる。

4、価値の転換

 悲劇を見ることで自分の日常を振り返り、本当に大事なことは何か考えてみる。カタルシスが感情の浄化という一過性の強いものであるのに対して、価値の転換はより永続的根本的だ。今大事なこととは何だろう。金か名誉か、はたまた愛か。悲劇だからこそ、何が大事か明確に浮き彫りにされる。自分の価値観に揺さぶりをかけ、考え方を深めるために悲劇は非常に役に立つ。これが悲劇の魅力だ。

 オイディプスは神託の実現を避けるため、自ら次期コリントス王の地位を捨てる。つまり、王の地位や富より、不義を犯さないことのほうが重要なのだ。彼はコリントス王とテバイ王、二つの王位を失うわけだが、そのことは何一つ悲劇として考えない。父殺し、母との姦通の前では小さなことなのだ。

 オイディプスの事実を追求する態度は、物語を通して一貫している。だが、そんな彼に反対する人間もいる。真相を知る(あるいは途中で知る)三人、預言者ティレシアス・家来の牧人・イオカステだ。この三人は、知らないほうがいいとオイディプスを必死で止める。だが、彼は聞き入れない。その結果、オイディプスは自ら目をつぶすハメになる。たとえ悲劇しか生まないとしても、真実は明らかにすべきなんだろうか。三人のいう通りどこかで妥協して、知らないほうがよかったんじゃないのか。

 などなど、悲劇は多くの哲学的命題を与えてくれる。

5、現実は悲劇

 ちょっと苦しいが、人生は本質的に悲劇的だと仮定してみる。現在の地球の人口が六十億なら、そこには六十億通りの悲劇があるだろう。赤ん坊を流産した、交通事故で重傷を負った、悩みが絶えない、孤独が苦しいなどなど、様々だ。その数え切れない具体的個別的な悲劇を、普遍的に表現したのが悲劇作品ではないだろうか。古典中の古典である『オイディプス王』などまさにそうだ。悲劇の面白さは、物事の本質を的確に突いている点にあるのだ。

 よく人の思い出には、楽しいことよりつらかったことの方が残りやすいという。人生の本質が悲劇的なものなら、そうなるのも当然だろう。思い出につらいことが多いのも、人が悲劇を好むのも、水が百度で沸騰するように、そうできているからなのかもしれない。

⑤ 【劇的とは?―認知と逆転―】

 『オイディプス王』に中で、最も劇的なシーンはどこか。言うまでもなく、オイディプスがすべてに真相を知る場面だろう。オイディプス「ああ、思いきや!すべては紛うことなく果たされた。おお光よ、おんみを目にするのももはやこれまで、生まれるべからざる人から生まれ、まじわるべからざる人とまじわり、殺すべからざる人を殺したと知れた、一人の男が!」ここで認知と逆転が同時に起こった。オイディプスが「父を殺し母と姦淫」していたと自ら認知した瞬間、国民の尊敬の的でありスフィンクス退治の英雄オイディプスは、獣にも劣る大罪を犯した忌避すべき「穢れ」に転落した。認知もただの認知ではない。自分がずっと知りたがっていた真相が、そのまま自分を否定するという意味を持つ。自己否定の認知なのだ。自己否定を起こす結果を認知して、それに伴い、幸福の極みから不幸の極みへと一気に立場が逆転する。これこそが悲劇であり、その核心である劇的な場面だ。

 刑事ドラマやミステリー小説では、トリックや真犯人が明らかになる(認知)場面が最も劇的で盛り上がるシーンだ。野球では九回裏の逆転が、相撲なら土俵際まで追い詰められた後のうっちゃり(逆転)が最も劇的だ。『オイディプス王』においては、この認知の劇的と逆転の劇的が、どちらもマイナスの方へ同時に起こる。まさに、悲劇における劇的中の劇的だと言えよう。

⑥【陶酔―ギリシャ悲劇の形式を添えて―】

 悲劇に限らないが、観劇の陶酔感について述べたい。だが、そのためにはまず演劇の起源を知ってもらう必要がある。演劇の始まりは、紀元前五、四世紀のギリシャだった。酒の神ディオニソスをまつる儀式、いや、儀式というよりはドンチャン騒ぎに近い祭りの中で、合唱が行われた。悲劇tragedyは「山羊に扮した合唱団の唄」を意味するtragoidiaが語源である。つまり、集団による合唱が演劇のもとの形式だったのだ。

そして、舞台における演劇『オイディプス王』の進行形式について。まず、序章プロローグ(プロロゴロス)が語れると、続いて入場の歌(パロドス)がある。芝居(エペイソディオン)と合唱(スタシモン)が交互にそれぞれ四回づつ続くと、最後に終章エピローグ(エピソダス)で終わりだ。つまり、基本的に芝居と合唱のサンドイッチで構成されているのだ。だが、第二芝居(エペイソディオン)と終章の芝居には歌による対話コンモスが導入されていて、全体的に歌のほうが多い。「合唱の多い芝居」というよりは、「芝居に変化しかかった合唱」のほうが適切だろう。

『オイディプス王』は一貫して、謎解きと犯人探しの形でストーリーが進む。そのせいだろう、セリフが非常に論理的で明朗にできている。だが、言い換えれば、それは理屈っぽくて面白みに欠ける。酔えないのだ。その欠点は合唱が補っている。合唱隊が情感たっぷりに歌い上げることで、観衆に陶酔感を与える。いや、成立順を考えれば合唱の陶酔感を増すために、補足説明として演劇が付いていると言うべきだろう。感動を与えてくれるのは、あくまで合唱なのだ。芝居の中でも、要所ではコンモス(歌による対話)として変則的に歌が導入されている。

余談だが、シェ―クスピア作品のセリフには実に多くの比喩や修飾、そして「ああ、おお」といった感動詞が見られる。それらは、時にひどく遠まわしで余計にさえ感じるが、性質において、芝居の中に形を変えて存在する合唱の詩(うた)ではないだろうか。

⑦【スフィンクスのなぞの答えは「人間」ではない?】

スフィンクスの謎は、岩波文庫版『オイディプス王』の解説にはこうある。「一つの声をもち、二つ足にしてまた四つ足にしてまた三つ足なるものが地上にいる。地を這い空を飛び海を泳ぐものどものうちこれほど姿・背丈を変えるものはいない。空がもっとも多くの足に支えられて歩くときに、その肢体の力はもっとも弱く、その速さはもっとも遅い。」

答えは「人間」というのが定説だ。デルポイの碑銘「汝自身を知れ」をユーモラスに表現したものだと言われている。だがいくつか疑問が残る。答えが人間ならば赤子の四本足・成人の二本足・老人の三本足、つまり四・二・三の順になるはずだ。だが、問いには二・四・三の順になっている。しかも、段階的に成長するものではなくて、同時に二・四・三であるものを聞いているようだ。そして、「これほど姿・背丈を変えるものはない」というが、卵から鳥が生まれたり毛虫が蝶になったり、人間より姿背丈を変える生き物は容易に見つかる。やはり、「人間」というのは不十分な答えではないのか。

結論を言うと、本当の答えは「オイディプス」だ。一つ一つ説明しよう。オイディプスは生まれるとすぐ、実父に両かかとをピンで貫かれ山奥に捨てられる。ピンで貫くことで二本足で歩くことを否定され、山奥の四本足の獣が住む世界に送られるのだ。「腫れ足」を意味するオイディプスの名が示すように、二本足を否定された印は生涯傷跡として残る。つまり、二本足であり、四本足の意味も持っている。

また、「姿・背丈」を外見にとどまらず、内面的にも解釈してみよう。劇中のオイディプスは一見フツーの人間だ。だが、中身は父を殺し母と相姦する宿命を負っている。人にあるまじき行為を運命付けられた、人よりもむしろ獣に近い存在なのだ。そして、彼は宿命が実現済みであることを知ると、自ら目を潰す。ギリシャ神話において、目は性器の象徴としてよく使われる。老人と青年を区別する境界線に、性機能の有無がある。オイディプスは本来青年(二本足)であるのに、象徴的去勢を行うことで、同時に老人(三本足)にもなったのだ。そして、盲目のため杖をつき、外見上も三本足で生きなければならなくなる。

二本足の青年であるはずのオイディプスは、内面においては四本足の獣であり三本足の老人であり、外見においては杖が必要な三本足の盲人だった。二・四・三本足の三位一体、スフィンクスの謎の答えは物語を通じて、オイディプスだと明らかになる。

⑧ 【人間的、あまりに人間的な(⑦のつづき)】

しかし、スフィンクス自身が「人間」を正解と認めて、自殺までしている。なぜスフィンクスは「人間」を正解にしたのか。

オイディプスの名前には、「腫れ足」以外にもう一つの解釈がある。オイディプスは「オイダ」と「ディプス」の二つから成っているという見方だ。「オイダ」は「私は見る、私は知る」をあらわす動詞であり、「ディプス」は「二本足」をあらわす名詞だ。つまり、オイディプスとは「私は二本足であることを見て知っている」という意味になる。これは、⑦の三位一体の関係における二本足ではない。むしろ、内面に絞って四本足の獣の対立する二本足の人間と、二項対立で考えるほうが適切だろう。なぜなら、『オイディプス王』の中心はあくまで「父親殺しと母との姦淫」というアポロの神託だから。神託だから。

「人間」であるとは何か。人間の人間的な部分、人間性とは何であるか。それは、運命に挫けないこと。運命に立ち向かい克服しようとすることだ。オイディプスは獣に等しい罪を犯した。それは、オイディプス自身に非があるわけではなく、運命の支配によるまったく不条理な罪だった。しかし、それでもオイディプスは前向きに生きることをやめない。④の2崇高の所でも言及したが、オイディプスは自分の運命を嘆きはするものの、すぐに立ち直り義務を果たす。イオカステの埋葬・自らの追放・二人の娘の保護を次の王クレオンに念入りに委託する。夫として、王として、父としての義務を冷静にこなす。自暴自棄とはほど遠い。

オイディプスはまさに人間的な理想像だ。だから、スフィンクスは「人間」を正解にしたのだろう。ではなぜ、謎を解かれると自殺までしたのか。やや苦しいが、オイディプスが四本足の事実に向かい合っても毅然と生きている態度、いわば「人間」だと断言できる英雄的精神に驚愕したのではないだろうか。

イオカステのセリフにこういうのがある。「恐れてみたとて人間の身に、何をどうすることができましょう。人間には、運命の支配がすべて。」『オイディプス王』においては、確かに、運命には逆らえないというのが一つの結論だ。だが同時に、運命に抗する人間・「運命愛」を実行する者への人間賛歌という側面も持っている。
출처: http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/3026/tragedy.html




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